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イエスは本当に自称通りの存在だと信じるか

「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、

わたしを信じる者は決してかわくことがない。 しかし、あなたがたに言ったが、

あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。 」(新約聖書 ヨハネ 6:35)



イエスさまが言ったことが本当だって信じるのか。 それが問題だ。

脊髄反射の如く「信じる」と言うのは簡単だが、

立ち止まり振り返ってみると、本当に私たちはそう信じているだろうか。



待っても状況が変わらなかったり 悪いことを我慢しても満足感を感じなかったり やるべき事をしても望んでる結果にならなかったり


そんな時に自分で

イエスさま以外の何かで 目前の問題を解決しそうになってしまう。


つまり、

「『神様の存在だけで本当に十分だ』と信じていない」行動をとってしまう。


問題に固執するとプラスの変化に目を瞑ってしまい、 プロセスに対してもじれったく感じる。 それはまさに御霊の実である「忍耐」と反対の行動だ。


聖霊の働きがあるところには、

愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意(いつくしみ)、

誠実、柔和(謙遜)、自制が実を結ぶ。


すぐに解決が欲しい

すぐに答えが欲しい

すぐに変化が欲しい

それを欲する思いがイエスさまを欲する思いを上回ってしまうなら、

私たちは自分の霊的安全を危険に晒しているのだ と知る必要がある。


もはや、

自分の願う通りにならない中で自分は忍耐力を行動に移す機会が与えられているのだと、

開き直って感謝してしまう方がいい。

自分が固執していた必要や幸せを手放すことが、

イエスさまの手を握るのに必要なことなのかもしれない。


本当にイエスさまだけで十分なのか。 この問いに「YES」と答えるのなら

その考え方・生き方はこの世が伝えてくるメッセージと真逆だ。

世の中に存在している私たちにとってこの考え方はトンチンカンに思えて当然なんだ。

聖書はこの世的に見てかなりトンチンカンだ。


しかし、世の中が発信しているメッセージ通りに生きても幸せになれないのなら、

このトンチンカンに思える生き方を試してみてもいいじゃないか。

だって、これが本当に愛に溢れ慈悲深く優しい全能の神の示す生き方なら、

それに従った先には絶対良い景色が広がっているはずだから。

すぐには見えなくても、そのプロセスさえ良いことのはずなんだ。

つらい時は、自分が信じていることを振り返るいい機会として受け取ればいい。

混乱したり、地団駄踏んでる私たちの側にも、忍耐あるイエスさまは優しく寄り添ってくれているんだ。

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